中世の沖縄

中世の沖縄(グスク時代~)

→ 年表へ

12世紀頃から、沖縄地方では按司(あじ)と呼ばれる首長が現れ始め、グスクと呼ばれる城砦を拠点にして激しく興亡を繰り広げるようになります。

この時代はグスク時代と呼ばれることもあります。この按司が現れる前から琉球には王朝があったとされていますが、神話の類とみなされることが多く、正確なことはわかりません。

14世紀頃には、沖縄本島では北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の三つの勢力圏が形成されるようになり、今でも沖縄の地理を考えるときにはこのグルーピングが大部分適用されています(地理的に正確な三等分ではありません)。

この三つの勢力圏は、それぞれ中国と別で中国(明)と外交を行っており、朝貢貿易を行いながら自勢力の発展を続けていきました。

1429年に中山の王であった尚巴志(しょうはし)は、北山と南山を続けて滅ぼして三山を統一することにはじめて成功し、この後に生じた尚王朝によって、対中国関係において琉球を代表するのはこの中山の王であるという姿勢を鮮明に打ち出し、中国皇帝もこれを認め、琉球王国体制が作られるようになります。

中国に対して琉球王国は臣下の立場を取り、使者や貢物をたびたび送っていました。当時、主に貢物として用いられたのは馬や硫黄、芭蕉布、貝製品とされています。中国から得られる文化的な刺激や、鉄器や陶磁器といった多くの物資は、島嶼国である沖縄には非常に有益なものが多く、当時の中国に対して自然な尊敬の念を感じていたと考えられます。

そして、中国各地から豊富に入ってくる様々な物資をもって、日本や朝鮮との中継貿易を行う拠点として機能するようになっていきました。当時、日本や朝鮮に対しては中国産の生糸、絹織物、南方産の皮革、香料、薬種などを輸出していたとされています。また、東南アジア諸国との貿易も展開され、シャム(タイ)は特に重要な貿易相手国だったとされています。

 

 

1458年に首里城に掲げられた梵鐘(万国津梁鐘)には「わが琉球は貿易船をもって万国(アジア)の津梁(架け橋)となっている」という意の文が書かれており、当時の貿易における気概を表しています。15世紀頃は琉球にとっての大交易時代と言われ、この時期にヨーロッパ人たちから琉球人はレキオスと呼ばれていたとされています。

ただ、尚巴志の作った琉球王朝は短命に終わり、7代目の尚徳の死後にクーデターが起こり、代わりに尚円を初代とする第二尚氏王朝が誕生します。

第二尚王朝の三代目の王である尚真の時代には北は奄美から、南は与那国島にいたるまで多くの事業が推進され、支配体制の確立や軍事力の強化が行われました。

このように沖縄で国内体制が出来上がる頃、日本では戦国時代の最中で、軍事面や各制度において大きな変化が起こっており、また琉球が臣下として使えていた中国(明)は大きくその力を落とし、東アジアの状況は刻々と変化を見せていたのでした。

 

主な出来事

1187年 舜天即位と伝わる
1260年 英祖即位と伝わる
1350年 察度即位と伝わる
1390年 宮古・八重山がはじめて中山へ入貢
1406年 第一次尚王朝誕生(王は尚思紹)
1422年 尚巴志が中山王に即位
1429年 尚巴志が三山を統一する
1456年 冊封使が来琉し尚泰久を国王に封じる
1458年 護佐丸・阿麻和利の乱起こる
万国津梁の鐘を首里城聖殿にかける
1469年 泉州から福州に市舶司が移り、柔遠駅(琉球館)が設置される
1470年 尚円王(金丸)が即位。第二尚王朝へ
1531年 「おもろそうし」第一巻編集
1570年 南方貿易の記録が途絶える
1605年 野国総管が福州より甘藷を持ち帰る