近世の沖縄

近世の沖縄

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1609年、徳川家康の許可を得た薩摩軍が琉球に侵攻します。

薩摩軍は奄美大島や徳之島など、琉球王国の版図による抵抗を退けて沖縄本島に上陸します。北部の統治拠点だった今帰仁城を攻略すると、中部から上陸する軍と那覇付近から上陸する軍に分かれて首里城を目指し、その攻略に成功したのでした。

この時、国王だった尚寧とその家来は薩摩に連れて行かれ、その後駿府城(静岡県)で徳川家康に謁見することになります。その後、二代将軍である徳川秀忠と謁見し、その後再び薩摩に移り、薩摩への忠誠を誓う誓約書を書くこととなって帰国します。

この事件により、昔からの中国との朝貢関係は維持しつつ、薩摩や幕府に対しても従属しなければならないという複雑な王国体制を余儀なくされるのでした。

こうした苦しい情勢下で登場した羽地朝秀(はねじちょうしゅう)は、沖縄のさまざまな改革に取り組んだ人物として知られています。羽地朝秀の改革の目的は、当時の大国に両属しつつも完全に組み込まれないだけの強固な国力を備えることにありました。そしてその路線は蔡温らに引き継がれていきます。

近世の沖縄においては、琉球王国のおかれた状況は非常に厳しいものでした。しかし、政治家たちの努力が実を結び、王国は少しずつ国力を蓄え、統治体制としても安定していきます。

その安定した時代の中で、現在にも繋がる三線による音楽や硫歌、組踊、琉球舞踊、染織や漆器、美術、文学などの文化が大きく花開き、茶道や書道、陶芸、絵画なども発達していきました。

また、農業の面でも野国総管や儀間真常などの活躍で製糖技術が発達したりサツマイモが栽培されるようになったりと大きな技術進歩が起こります。工業面でも、金銀銅の鋳物細工や芭蕉布、酒、味噌、醤油などの製造業が行われるようになり、彫物や指物、塗物、木細工などが家内工業として発達していきました。

当時の主な交易品は薩摩に対しては黒糖やウコンなどで、中国に対しては昆布やあわび、フカヒレなどだったと言われています。しかし18世紀後半には貿易も大幅な赤字に転落していきました。

19世紀になると、欧米の勢力が日本や琉球にも押し寄せるようになり、イギリス、フランス、オランダ、ロシア、ドイツから次々に艦隊や商戦が来沖し、アメリカのペリーの来航は沖縄の歴史を大きく変えていきます。

1853年に那覇沖に姿を現したペリーの艦隊は、琉球王国を江戸幕府との交渉基地として利用して日米和親条約を締結し、琉球王国とも琉米修交条約を結んで帰っていくのでした。ひとときの平和の中で国力や文化を充実させた琉球王国でしたが、世界を取り巻く状況の変化は予想以上に速く、そして諸外国との力の差は圧倒的であり、より難しい立ち位置を強いられるしかなかったのです。

 

主な出来事

1609年 島津による琉球侵攻
1617年 島津氏、琉球の日本化を禁止する
1623年 儀間真常、はじめて黒糖を製造する
1624年 八重山キリシタン事件起こる
1637年 宮古・八重山に人頭税が課せられる
1647年 黒糖・ウコンが専売となる
1650年 「中山世鑑」が編纂される
1666年 羽地朝秀が摂政となる
1698年 琉球から薩摩に甘藷を伝える
1728年 蔡温が三司官となる
1731年 薩摩から製陶の技術が伝わる
1846年 宣教師ベッテルハイムが来琉
1851年 ジョン万次郎来琉
1853年 ペリー来航。
1854年 ロシアのプチャーチン来航。