近代の沖縄

近代の沖縄

→ 年表へ

そして、ついに1872年「琉球処分」と呼ばれるプロジェクトが江戸幕府に替わった明治政府によって行われるようになります。これは、旧来続いてきた琉球王国を廃し、ひとつの行政区である沖縄県として日本に併合しようとするものでした。

この時、朝貢関係を続けてきた中国と、今までも独立を保ってきた琉球の反対が大きな問題となりました。この日本への併合という事態を避けるために、羽地朝秀の時からずっと国力の増強に努めてきたため、簡単には併合を受け入れることができなかったからです。

しかし琉球処分は強行とも言える形で決行され、1879年に明治政府が送った軍隊と警察によって首里城は落城。最後の王であった尚泰(しょうたい)は首里城を明け渡すことになり、ここに独立国としての琉球王国が滅んで、日本国の沖縄県が誕生します。

その後、一部の反対派は沖縄を抜け出して中国に亡命し、中国当局に助けを求めますが、世界の列強によって多くの問題を抱えていた当時の中国(清)には、残念ながら琉球問題を解決する力はありませんでした。

沖縄県となった琉球では、急速な「日本化」政策が取られ始めます。教育制度や土地制度の改革などが次々と行われ、日露戦争(1904~1905)が終わる頃には沖縄県としての体制がほぼ確立されるようになりました。

当時は製糖業を基幹産業にするなど産業振興策が実施されていましたが、根本的に脆弱な産業基盤・経済基盤を変えるには至りませんでした。中継貿易の拠点としての必要性は昔ほど無くなっていたこともあり、人々の暮らし向きは苦しい時期が続きます。

当時は主要産業が製糖事業の他に無く、天候や自然環境に大きく左右され、米や芋を食べることもままならずに毒性のあるソテツを命がけで食べて暮らす人も多くいました。この様子は「ソテツ地獄」として今も沖縄では語り継がれています。砂糖の他にも酒や鰹節、漆器などの交易品もありましたが、取り扱い量は全体の2割にも届かず、過度に製糖に頼った脆弱な産業構造になってしまっていたのです。

一方で、日本は台湾などの新たな植民地に対して多くの補助を行い、沖縄県への補助は少なくなっていきます。暮らしに困った沖縄県民の中には日本本土に出稼ぎに出る人や、ハワイや南米への移民する人も多くなっていきました。

援助に頼らざるを得ない脆弱な経済基盤や他地域への労働提供といった、現代にまで続く状況の萌芽がこの時期にはすでに見られています。

主な出来事

1872年 琉球藩設置
1879年 日本政府、琉球処分を断行。沖縄県を設置
1892年 宮古で人頭税廃止運動が起こる
1898年 徴兵制施行。
1899年 入墨禁止令。海外移民始まる
1901年 本格的なカツオ漁業開始
1905年 宮古の五漁夫(久松五勇士)、バルチック艦隊通過を通報
1910年 ネズミやハブの駆除のためにマングースを移入
  那覇市に電話が開通
1911年 伊波普猷が「古琉球」を著す
1913年 ユタの取り締まりが強化
1914年 那覇-与那原間に軽便鉄道開通
1923年 県外への出稼ぎ労働者が増加
1924年 戦後恐慌が強まる(ソテツ地獄)
1926年 帝国議会で「沖縄救済ニ関スル建議案」が可決
1934年 旱魃が続き、宮古・八重山・久米島を中心に食糧不足
1938年 人身売買の厳禁
1940年 「沖縄日報」「沖縄朝日新聞」「琉球新報」が統合され「沖縄新報」となる
1944年 戦中、本土・台湾への集団疎開決定
  10・10空襲
1945年 3月に米軍が沖縄上陸。6月に地上部隊壊滅で事実上終戦